みなさんこんにちは。
この場に不釣り合いなのが登場しましたが、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟高知県本部、事務局長の玉ちゃんです。私は、しゃべりだしたら何を言い出すかわからないところがありますので、その際の「弁士注意!」役として、M副会長も一緒に来ております。ともども、よろしくお願いします。

有事法制が可決され、戦争しない国からする国へと、加速度を増して戦前に回帰していっている我が国ですが、ワインゼッガー氏の有名な言葉「過去に目を閉ざす者は未来にも盲目となる」をふまえ、過去に照らし合わせながら未来を展望しなければならないと思い、この大会に参加させていただきました。初めてです。昨日神山監督もおっしゃってましたが、歴史教育の専門家の方々の前で歴史を語るわけですからひじょうにつらいものがあります。しかも、こういった分科会のレポーター役というのは初めての経験です。レポート30分、質疑応答15分の予定で準備してますが、うまく時間配分できるかどうかも不安ですが、ともかく、はじめます。

さて、今日ここにお集まりのみなさんの中で、治安維持法を知らない方はいらっしゃらないと思います。知らないどころか、私なんかより、ずっと詳しい方ばかりだと思います。そうは思いますが、「治安維持法」といってもどんな法律だったのかを知らない方や、忘れてしまった方が増えているのも現状です。毎年8月15日に、私たち治維法のメンバーで、「戦争反対」のビラまきをするんですが、その時にもご年輩の方から「こんな年寄りに、そんな・・・治安維持法のことですが・・・むつかしいこと言うても分からん」などと言われることがよくあります。ですから、まず始めに、この法律について少しだけ述べたいと思います。レジメを参考にしながら聞いてください。

制定されたのは1925年です。天皇家を中心とする時の刻み方で言いますと、大正14年ということになります。普通選挙法と抱き合わせで制定されました。典型的なアメとムチですが、アメをもらったのは男子だけです。一方、ムチの方は3年後の1928年には早くも最高刑10年が、死刑に改悪されてしまいます。議会では可決されなかったのですが、天皇の勅令で決められました。「朕に逆らうもの生かしてなるものぞ」ということでしょうか。以降敗戦により廃止される1945年まで猛威をふるうわけですが、20年間に逮捕された人、数十万人、送検された人75,681人、死刑判決…これは朝鮮の方ですが18人、明らかな虐殺80人以上、拷問・虐待による獄死114人、病気による獄死1,503人にのぼっています。

余談ですが、制定された時、選挙期間中の戸別訪問禁止という法案も同時に可決されました。世界に類を見ない「暗闇選挙」はここから始まったと言えると思います。また、治安維持法の思想検事の第一人者で「思想検察の大親分」とも言えるような池田克なる人物は、戦後公職を追放されてましたが、1952年4月、講和条約が発効したとたんに追放が解除され、その2年後に最高裁判所の判事となり、更に、松川事件の主任判事にもなっています。

これと対照的なのが寺西元判事の件です。数年前の事件なので、ご記憶の方も多いと思いますが、当時仙台高等裁判所の判事であった寺西さんは「盗聴法」反対集会のパネリストとして出席を予定していましたが、圧力がかかり断念しました。そして、「パネリストとしては発言できない」と、お断りの話しを壇上からしました。たったそれだけのことで「思想が偏っている」と裁判官を罷免されました。寺西さんと比べて池田克は偏っていないとでもいうのでしょうか?

私は歴史教育者協議会という団体が、どういう団体か知りませんでしたが、昨日の全体集会から感じたことを述べますと、コイズミさんたちから見ればどうも偏った団体なんではないかと、そう思いました。でも、私から見ればコイズミさんやモリキロウさんは困ってしまうほど偏った思想の持ち主なんですが、ここにおいでるみなさんは偏ってはいません。普通です。

本題に入ります。
この法律の本質は四つに分けられます。 

第一に、戦前の天皇制政府が侵略戦争を推進するための法的武器であったという事です。制定6年後の1931年に戦争は始まっています。

第二に、治安維持法は、人類普遍の原理に反する悪法として、デッチあげ、拷問、虐殺など、驚くべき人権無視の弾圧体制を確立して、日本全土を暗黒支配のもとにおきました。

第三に、治安維持法による弾圧は、けっして共産主義者やその支持者にたいしてだけおこなわれたのではなく、政府の政策に批判的な国民はすべて弾圧の対象にされました。

第四に、治安維持法にもとづく弾圧は、朝鮮での死刑執行でもわかるように、とくに植民地で猛威をふるい、民族独立闘争をようしゃなく圧殺しました。

驚いたことに日本政府は彼ら犠牲者にたいし賠償はおろか、謝罪すらしていません。敗戦後、彼ら犠牲者に対し、政府は「将来に向かって刑の言い渡しを受けざりしものとみなす」。つまり、「有罪」判決そのものをなかった事にしました。でも、有罪判決はなくなっても、拉致監禁され、リンチにあった事実はどうするのか?殴った方は「忘れてくれ」ですむでしょうが、殴られた方は「ハイそうですか」ですむものではありません。彼ら犠牲者が謝罪と賠償を要求して立ち上がったのは当然だと思います。同じ敗戦国のドイツでは連邦補償法で、ナチスの犠牲者153,000人に、年間1人あたり約80万円の年金を支給しています。またイタリアでは、ファシズム体制下で実刑を受けた「反ファシスト政治犯」に終身年金を支給しています。戦勝国のアメリカやカナダでは、第二次世界大戦中に強制収容した日系市民に補償および謝罪をおこなっています。そしておとなり韓国では、治安維持法による逮捕・投獄者には、民族独立運動に貢献した愛国者として大統領が表賞し、懲役1年以上の犠牲者には年金を毎月16万円支給しています。本来ならば、こんな事は日本の政府がやるべき事です。

今回の拉致問題で、犠牲者の家族は北朝鮮に対し、謝罪と賠償を要求しています。それはしごく当然の事です。しかし、日本政府は戦争で犠牲になった方々に、国内外を問わず賠償はいっさいしておりません。形だけの謝罪をした事はありますが、個人への賠償はなし。強制連行された方、従軍慰安婦にされた方、そういった方々やその遺族に対して、なんら賠償する気はないようです。そういった国を相手に、北朝鮮側だけが個人賠償に応じるはずがないと僕なんかは思います。

さきほどから見てきましたように、諸外国では、レジスタンス運動家や治維法犠牲者は英雄であり、祖国の誇りです。なのに、日本ではそうなっていないところに問題があります。命をかけて侵略戦争に反対した彼等を、私は日本の良心、誇りだと思っています。それが、私がこの運動に参加した原点です。 

それでは。の、私たちの運動に移りたいと思います。

我が同盟は、「ふたたび戦争と暗黒政治」の時代に逆戻りするのを阻止しようと1968年に結成されました。当時は犠牲になった方々も健在で、その方達200人で結成しました。戦前逮捕されたような人は、戦後も労働運動などにも懸命でした。しかし、自身の問題にも取り組まなければならないという機運が生まれたのがきっかけとなったのです。1968年といえば戦後23年目の事です。何度も言うようですが、治安維持法犠牲者は時の特高に拉致されたんです。それを戦後23年たって犠牲者が団結し、謝罪と賠償を要求した。それから40年近くもたっているのに未だに誠意ある回答を得ていない。私たちの運動を「それは昔のことじゃないか」と言う方々もいます。じゃあ、拉致から25年たって認めた今回の北朝鮮による拉致事件も古いんでしょうか?そうではないですよね。

その時、私たちは二つの要求をかかげました。一番目の要求は「国が、治安維持法を戦争犯罪と人道に反する悪法と認め、その証しとなる賠償を行う事」です。人に暴力をふるったら謝る。当然のことです。二つ目の要求は「いかなる国民抑制の反動立法もつくらないこと」ですが、有事法制を作らせてしまいました。今後はこれを、廃案を視野にいれつつ発動させない取り組みに切りかえていかなければなりません。

1974年からは署名活動をはじめ、国会請願を繰り返し、1988年からは団体署名も集めて衆参両院議長、法務大臣に要請行動をすすめてきました。

二つの要求をかかげ、署名活動を中心に闘ってはきましたが、さきほどからも言ってるように、実現にはいたっておりません。そんな日本政府にいくら言ったところでどうしようもないので、国際世論に訴えることにし、1997年からジュネーブにある国連人権小委員会で毎年訴えています。その趣旨は、@治安維持法が人権侵害の悪法であったことを認め、A日本国憲法の精神に則って(のっとって)西欧諸国同様に犠牲者に対し謝罪と賠償を行うよう国連が勧告してほしい、というものです。最初は「日本は侵略国家である。なのに、なぜ被害者としての言い分があるのか」と不思議がる専門委員の方もおいでたようですが、事実を知るにつれ皆一様に驚いたそうです。それだけ戦時中の日本の事なんか諸外国には知られていないのですね。

犠牲者のひとり太田まちさんは、6年前、91才という高齢をものともせず国連で訴えました。その時の通訳で、当時23才のパリの学生は、事前に治維法を勉強して、時には涙を流して通訳してくれたそうです。そして、同盟中央本部の齋藤事務局長の訴えにも、年を追うごとに共感の和が拡がっています。言葉が通じない人達とは気持が通じあえるのに、言語が同じ日本人になぜ私達の思いが届かないのか。犠牲者が死に耐えてしまうまで知らんぷりを決め込むつもりか。そんなことはさせない!一刻も早い解決を!そう思って私たちは取り組んでいます。
 先程の太田まちさんが、屈辱的なリンチにあいながらも、なぜそこまで頑張れたのかをこう語っています。「自分達の民主政治が近くなっているという事が楽しみだった。私達には希望があった。絶対に自分達の望んでいる方向に歴史は動く」と、そして「学習しないといけない。そうでないと光がさしている方向や、それが正しいのか悪いのかがわからない」とも。あの時代に希望をもって未来を見据えていた唯物史観のすごさを感じます。また、権力に屈せずに闘うことが、いかに人間を成長させ、誇りを保たせるのかも、考えさせられました。

この国連ツアーでは、国連への要請だけでなく、各国NGO組織の方々との交流や、アウシュビッツやレジスタンス博物館の見学なども行われます。犠牲者の体験談は、外国NGOにショックをあたえ、遠いジュネーブまで毎年多くの日本人が来て、国連に訴えていることに共感を示す人々は増えてきています。しかし、国連人権委員会が緊急に解決を迫られている人権侵害が多くの国々で頻発していることもまた事実です。私が行った前年、つまり1999年には約20万件の人権侵害の訴えが、国連人権委員会に出されているとのことでした。横田専門委員の話によれば「そういった状況の中、過去の、国連ができる以前のことにはなかなか着手できないでいる」とのことでした。そして、その、国連ができる以前の従軍慰安婦問題は、1992年以来毎年とりあげられ、マクドゥーガル報告が出され、再三日本国政府に対する国家賠償要求決議がなされていますが、これにもまた、日本国政府は不誠実な態度を変えようとしていません。そういった日本国政府に対し、NGOの間では批判の声があがっていました。日本の人権状況は国連加盟国中まん中くらいだそうで、経済大国といわれる日本は人権後進国です。

また、アウシュビッツやレジスタンス博物館の見学では、スモーレン元オシフィエンチム博物館館長や、アンドレ・トレレジスタンス博物館館長と懇談できました。私たちのツアーには田熊真澄さんという(中国新聞に紹介された方です)治維法犠牲者も同行してましたので、短時間ではありましたが、東西のファシズムに反対して闘った者同志、連帯と友情を深めたことだと思います。

さきほど「オシフィエンチム博物館」といいましたが、アウシュビッツ博物館のことです。元々はオシフィエンチムという地名だったのですが、その地を占領したナチがアウシュビッツと変えたそうです。アウシュビッツに向かうバスの中で、ガイドさんが見学の予備知識として語ってくれたのですが、彼はこうも言いました。「元々アウシュヴィツはユダヤ人虐殺のために作られたのではなく、ナチが戦争をするために邪魔になるポーランドの政治犯や文化人など、進歩的な人間を隔離するためにつくった収容所です」。これらの話を聞いたとき、私の脳裏に浮かんだものは、戦争に反対する勢力を抹殺するために治安維持法をつくり、「創氏創名」政策によって朝鮮民族の誇りを奪った戦前の天皇制国家です。ヒットラーといいヒロヒトといい、ファシストの考えることは同じだと思いました。

また、ポーランドでは14歳になるまではアウシュビッツを見学させないそうです。認識が不十分な段階では誤った見方をする恐れもあり、逆効果を考えてのことだそうです。そのかわり、それまでに学校できちんと教え、授業の一環として見に行くそうです。もちろん、親の責任において連れて行くのはいくつでもかまいません。そして、博物館教育部長はこう言いました。「ここへは学習した後で何をするべきかを教えてくれる教師と来るべきです。そして、彼等の過去の歴史に涙するのではなく、独自の考えを持って欲しい」・・・。この言葉は、私の胸に、深く染み込みました。

スモーレン元館長のお話を聞きながら、私はある言葉を思い出しました。それは太田まちさんの「私たちには展望はなかったが希望があった」という言葉です。質問してみました。「収容所から出られるという希望や展望はありましたか?」。スモーレンさんは通訳後即座にこう答えてくれました。「自分達がここから生きて出られるとは思っていなかった。しかし、ここアウシュビッツで一体何が行われたかを後世に伝えなければと思っていた。私たちの希望は、未来に生きる子供達の上にあった」と。この言葉を聞いたとき、私は、いかに悪政が続こうとも決して諦めてはいけない、という思いを強く持ちました。でも、彼らが未来に「希望」を見いだしていたのは、自らが先頭に立って闘っていたからですよね。現状を嘆くばかりではなく、闘い続けたからです。見習おうと思います。

こういった努力が少しづつ実り、国会要請を引き受けてくれる議員も増えています。今年は、31万筆あまりの個人署名を174人の国会議員に託しました。どういった方々が賛同してくださっているかは同封の資料をご覧になってください。過去最高だった昨年を14人上回っています。団体署名の方も、民主党議員が多く賛同してくださっているおかげで、その関係の労組や、有事法制のからみで、宗教団体からも多く集まりました。また、昨年は要請行動前日に行われた同盟と森山法務大臣との会見にはNHKと朝日新聞が取材にきたり、会見後に法務省記者クラブで要請の趣旨についてレクチュアするなど、歴史的な前進もみられています。

歴史的な前進はみられていますが、いかんせん中心となって活動されてる方々は高齢の方が多いのが実情です。全国大会に参加した時なんか、ご本人達が、周りの邪魔にならないようにと小さな声で話をしているつもりでも、内緒話になっていないんですよ。耳が遠いもんだから。そういった光景を目の当たりに見ますと、同盟も若返りをする必要がある、と痛感し、溝渕先生の提案もあり、昨年、民青同盟と交流をもちました。でも、何人来てくれるか不安で、会場の設営も、あまり大げさに机を並べ、その中でポツンと対話するのも寂しいと思い、控え目に配置しておりました。そしたら、増席しなければならないほど多くの若者が集まってくれました。人数は多くても、そこにはおじいさんと孫くらいの年の差があるわけでして・・・私とは親子ですけど・・・最初は対話もはずみませんでしたが、同じ志を持つもの同士、すぐに打ち解け最後には時間が足らなくなるほどでした。若い方達は治維法について殆ど知りません。小林多喜二など、有名な方は知ってますが、高知の一地方で、いったい誰が犠牲になったのか、いったいどんな闘いがあったのか、などは知りません。自分の父親が生まれてもいない時代のことなんて知らなくて当たり前なのかもしれません。でも、知らないからこそ彼等は知りたがっている。それが実感できました。また、歴史を正しく伝えることの重要性や21世紀の平和を築くための活動など、大きな課題を認識し合うことができました。

そして、犠牲者の方々の高齢化にともない、亡くなられる方が増えています。というよりも、戦後58年を迎え、殆どの犠牲者が90才近く、あるいは超えてますから、生存者のほうが格段に少ないのです。高知県関係では確認されているだけで存命者はわずか3名です。資料をみていただきますと「掘り起こされた犠牲者数53名」となってますが、犠牲者の総数は分かってません。少なくとも倍はいるんじゃなかろうかと推測しています。最初に言いましたが、犠牲者の多くは戦後も農民運動や労働運動をはじめ、いろんな運動に参加されています。そういった方々は掘り起こす必要もありませんが、中にはこうした運動から離れ、ひっそりと暮らしていた方も多くいただろうと推察されます。たまたま空から降ってきたビラを持ってただけで捕まったり、拷問に耐えきれず転向した方々もいたわけですからね。僕の友人の父親も、台湾の方で治安維持法容疑で逮捕された経験があると言ってました。その方は音楽の先生で、外国語で歌を歌ってたかららしいのですが「ドイツ民謡だったのにおかしい」と友人は語ってました。その方なんかも犠牲者の1人には含まれていません。また、中央本部が何年かに一度、全国の生存者調査をおこなっているんですが、前回、2001年におこなわれた調査では247名の生存者が確認されました。ところが、その前、1995年におこなわれた調査では224名の確認なんです。なんと、生存者が23人も増えてるんですね。女性が増えてるんですが、多分、結婚などで音沙汰がなくなったといいましょうか、どういえばいいのか分かりませんが、兎に角、そういった犠牲者の方々を、その地の同盟員が地道に掘り起こした結果だと思います。

こういった状況ですから、「風化させない運動」の取り組みにも力を入れなくてはなりません。この運動は、主に書籍出版や各種展示会、ビデオ上映会などを中心に行っています。

1973年4月に「高知県における共産主義運動の足跡」という本を出し、それが第4集まで続きました。そして、今年、その女性版とも言うべき「ときを翔て」を出版。もちろんさきほどの「高知県云々」に女性が登場していないというわけではありませんが、今回の本は女性の目線でとらえた治安維持法というところが今までの本とは違うところです。しかも表紙絵からその題字、取材・編集、校正にいたるまで女性会員が心を込めて作り上げた冊子です。この本を読み、今一度、治安維持法で犠牲になった女性やその家族に思いをはせていただきたいと思います。また、この本は治維法だけでなく、戦前戦後と燃やし続けてきた女性の闘いを基本にすえ、戦後の民主主義の基礎を築いた「レッドパージ」「勤評闘争」も加えています。「こんな詳しいことを知らなかった」「自分の生きてきた歴史と重なって感動した」などの感想が寄せられています。
昨日から、あれ買えそれ買えこれも買えと、たまるか高知はずうずうしいと思われるかもしれませんが、一冊700円です。この会場でも販売させていただいております。すでにおみやげをたくさん買われた方でも「安い・薄い・軽い。しかし中身は濃い。しかも地域性がある」と、おみやげとしての必要十分条件を満たしていますので、ぜひこの機会にお買いあげください。

それらの取材で、遺族の方なんかにお話をお聞きしたりするんですが、戦前はもちろんのこと戦後も、肩身の狭い思いをして生きてこられた方も多いし、回りはともかく、親族がいまだに「前科者」扱いしているのにも驚かされます。他県では、私たちの訪問により、初めて自分の親の素晴らしさに気付き、同盟に入会し、ともに戦い始めた事例もあります。昨年の3月に、高知県関係の犠牲者の写真などを展示した「3.15展示会」というのをおこなったんですが。その時、展示している犠牲者の写真を示し、「自分は甥にあたる。彼は犯罪者だ。恥ずかしいから展示を外してくれ」などと言われたこともあります。その方達が、犠牲となった自分の親族に、それほどまでに恥じ入るのは、日本国政府が犠牲者に対し、謝罪も賠償もしていないという「事実」につきると思います。日本国政府が自らの「罪」を認め、ちゃんと謝罪さえすれば、一転犠牲者は「英雄」となるのです。今の政府にその意志がないのなら、そういった意志を持った政府を作るのが謝罪への早道だとも考えます。

地方議会での陳情運動においては、高知県では、53議会中18議会で採択されています。この運動で、全国を引っ張ってくれてるのが秋田県です。秋田県では、全地方議会で意見書採択を勝ち取っています。東北人特有の粘りがそこにはあるんでしょうか?高知県人はともすると「あそこはダメダメ」と、自分達で勝手に決めて、自主的にあきらめてしまう傾向があります。ここらへんを戒めて秋田に学び、多くの採択をなしとげたいと思います。

弾圧された方々には共産党員が多かったわけですから、議会でも、やはり共産党の議員を中心に、提案工作をしています。議会によっては、共産党の提案には、それがどんなにすばらしくて、住民のためになることでも、「共産党が提案したから」という、理由にもならない理由で不採択にするところもあります。ですからそういったところでは作戦が必要です。賛同してくれそうな議員に狙いを定めて口説き落とし、その方に提案していただき通したという議会もあります。そこはやはり議員さんの裁量が大きくものをいってきます。人数が多く、議会に占める割合が多くてもダメなとこはダメですが、たった1人の議員さんでも、裁量と情熱と怒りがあれば通っています。おもしろいものです。

私たちの活動は、橋ができたり道ができたり、国保料が安くなったりといった、直接目に見え、生活に直結した運動ではありません。ですから、自分達で言うのもなんですが、高い思想性がなければ長続きしません。したがって学習は不可欠です。その学習の手引きとして機関紙「不屈」が毎月、「治安維持法と現代」が年2回発行されています。これらは、私のような戦後生まれ、しかもこうした運動に遅れて参加した者にとっては非常に勉強になります。高知県本部では他に、講師を招いて学習会をしています。今年は「横浜事件」を予定しておりましたが、講師との時間的な折り合いがうまくいかず、まだ実現しておりません。

最後になりますが、私は、小学校のころから歴史は嫌いでした。それは「538らい仏教伝来」だとか「1192造ろう鎌倉幕府」といった、年号を覚えるのが歴史だと思っていたからです。そうではなく、この事件が日本に、あるいは世界に、どういった影響を及ぼしたのか、そういった視点で物事を見るのが本当の歴史教育ですよね。同盟に入り、治安維持法という歴史を少しだけかじった今、歴史を学ぶということは、へたなサスペンスドラマを見るよりもずっとサスペンチックで面白いと、そう思っています。

ありがとうございました。